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2012/02/29

柳宗悦

日本を代表する「思想家」である、柳宗悦。
民藝運動を起こした人と記憶している人も多いのではないでしょうか?
「美学者」や「哲学者」としても知られていますが、
それ以外にも多くの顔を持っていた人だったようです。

1889年に現在の東京都港区で生まれた柳宗悦は、学習院高等科卒業の頃の1910年に、学習院の仲間である志賀直哉や武者小路実篤らとともに文芸雑誌『白樺』の創刊に参加したといいます。
大正文化の中心的担い手であった『白樺』。
堪能な語学力と持ち前の美的感性を生かして、同誌の中心的メンバーとして活躍した柳宗悦は、この雑誌の「編集者」として、「ライター」として、キャリアをスタートさせたわけです。

1913年に東京帝国大学哲学科を卒業した柳宗悦は、翌1914年に声楽家の中島兼子と結婚。
同年、来客が手土産として持参した朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳宗悦は1916年以降、たびたび朝鮮に渡り朝鮮工芸に親しむようにもなったそうです。
民族固有の造形美に魅せられた柳宗悦は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、日本統治下の朝鮮における日本政府の政策を批判したと言います。
そして、1921年には日本で最初の朝鮮民族美術展覧会を開催。
この時の肩書きは、今でいう「キュレーター」でしょうか。
その後も、1924年に現在のソウルに朝鮮民族美術館を開設するなど、固有文化の保護に取り組みました。

その一方で、柳宗悦は日本各地の手仕事を調査・蒐集していく中で、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開いて行きます。
調査・蒐集という側面から、「文化人類学者」や「民俗学者」、「目利き」「コレクター」としての顔も持っていたわけです。
当時、ごく当たり前の安物の品は下手物(げてもの)と呼ばれ、粗末な品と認識されており、誰も下手物を美の対象として顧みる人はいませんでした。
しかし、柳とその仲間たちだけは違いました。
彼らは下手物に美を発見したのです。
民衆の、民衆による、民衆のための品には、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿っていることを発見し、そこに工藝の発達を見たのでした。
柳たちが下手物に替わる言葉として民藝という言葉を使い始めたのは1925年。
民は民衆や民間の民、藝は工藝の藝からとり、あたらに民藝という言葉を生み出したのです。
このあたりが民藝運動の起こりだったようですね。
1928年には、独自の民藝美論を骨子とした初の本格的な工芸論『工藝の道』を著し、1931年は民藝運動の機関誌として重要な役割を果たした雑誌『工藝』を創刊し、「暮らしの美」を啓発していきます。
そして1936年には、日本民芸館を開館させます。
日本民藝館は大谷石を用いた木造建築で「美術館それ自身を一つの美の創作として展示したい」という意図のもと、外観のデザインはもちろん内部の建具の意匠も宗悦自身が関わったそうです。
また、展示にも細心の注意を払い、品物が最も美しく展示されるよう、独自の木製展示ケースや壁紙に葛布を用いるなど様々な工夫がされたそうで、そこかしこに柳宗悦の強いこだわりが伺えるのだとか。
日本民芸館の初代館長に就任し、この場所を活動の拠点とした柳宗悦。
その後の民藝運動の展開は皆さんのご存知の通りです。

「思想家」「美学者」「哲学者」「編集者」「ライター」「キュレーター」「文化人類学者」「民俗学者」「目利き」「コレクター」など複数分野に渡って超一流であった柳宗悦。

個人が異分野連携的な環境で能力を発揮するには、少なくとも二次元の強みを持っている必要があるとする、マッキンゼー・アンド・カンパニーによって有名になった「T型人間」というのがありますが、柳宗悦はアルファベットではあらわしきれないほどの複数分野のプロフェッショナルだったようです。

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