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2011/10/14

『The Secret Life of Swimmers』


 写真家、Judy Starkmanwww.judystarkman.com)の作品のひとつに『The Secret Life of Swimmers』がある。この作品は2枚1組で、1枚は誰もいないプールでの水着姿の写真。もう1枚は、水着から着替えた日常での姿を捉えた写真だ。いずれもモデルは同じポーズをとっている。
 この作品が生まれたきっかけは、Starkmanが常連として通う市民プールの更衣室で見かけた、1人の女性であった。かっちりしたスーツを着こなしていた彼女は、あっという間にスイマーに変身したのだ。プールなのだから、誰もが仕事着や普段着から水着に着替える。多くの人はプールの更衣室でのこの光景を、当たり前に思い、何の疑問も抱かないであろう。しかし、Starkmanは違った。彼女の変身ぶりを見て、「彼女はいったい何者なのだろう」と好奇心がむくむくとわき上がったというのだ。それ以来、Starkmanは市民プールで出会った人たちに「写真を撮らせて欲しい」とアプローチを始めた。
 こうして、ひとつの作品に仕上がった『The Secret Life of Swimmers』は観るものの瞳に“真実”を映す。
 「市民プールでは、誰もがすべてを脱ぎ捨て水着1枚になる。その無防備な状態は、すべての人を平等にするのです。それがプールの外に出ると、服や趣味や仕事、さまざまなものが被写体を幾重にも覆ってゆく。私はギミックを使わずに、隠れている真実をシンプルに写真で伝えたかったのです」
 Starkmanがこう話すようにこの作品を観ると、普段いかに僕たちが人びとの“真実”の姿を観れていないか、ということに気付かせてくれる。
 撮影場所であるカルバーシティ(L.A.)の市民プールは、市内から老若男女さまざまな暮らしを送る人が集まる。これは階層社会のアメリカでは非常に珍しいことだ。かつては異質な人びとが入り交じるメトロポリスと知られたL.A.であるが、現在、そこに住む人びとは社会的・空間的に明確に分断されているという。富裕層は「ゲイティッド・コミュニティ」という塀で覆われ、セキュリティ・サーヴィスが行き届いた安心で安全な居住区に暮らす一方、富裕層から犯罪者予備軍と見なされる貧困層は市警察の監視が厳重な「ゲットー」押し込まれて生活している。こんな状況のL.A.において、かつてのメトロポリスが備えていた「公共性」を残す数少ない「飛び地」がこの市民プールであるといえるのだ。
 つまり、ここでは富裕層も貧困層も関係なく、みなが一緒になってプールを楽しんでいるのだ。普段着から水着に着替えることで、社会的にも空間的にも断絶していた人びとの格差がフラットになるのである。
 「人は見た目が9割」という時代である。住んでいるところや、着ている服。就いている職業や身につけている小物など。趣味やセンス、記号的・顕示的に消費されるモノにばかり目がいって、それだけで人を値踏みするような時代の現代である。普段慣れ親しんだ人を値踏みする判断基準を、ここ、市民プールでは誰しもが失う。「持てる者」であろうと「持たざる者」であろうと、水着になると平等なのだ。こうした視点で『The Secret Life of Swimmers』を観ると、いかに普段「見た目」に捕われているかがよく分かることだろう。
 どうやら服には様々なモノが織り込まれているようだ。日本には、プール以外にも「銭湯」で、このようなフラットな状況が訪れる。服と一緒に肩書きや文化資本なども脱ぎさって「ハダカの付き合い」をする場として、昔から日本人に愛されているといえる。
 水着になることで、見えてくることがある。ハダカになることで、感じることがある。これこそが“真実”なのだろう。ヤケドしてしまう前に、服を脱がずとも“真実”を見抜くだけの目を早いとこ養いたいものだ。

参考:『pen(阪急コミュニケーション)2011/10/1号、斎藤順一『公共性』岩波書店p.81