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2012/01/22

Less is More.


この言葉はバウハウスの最後の校長を務めた、ミース・ファン・デル・ローエが残した言葉です。
僕がこの言葉を知ったのは、『佐藤可士和のデザインペディア』(マガジンハウス)だったと思う。
この本は雑誌『ポパイ』の連載が1冊にまとめられたもので、作者はもちろん佐藤可士和さん。
この本の中で佐藤さんはデザインについてあれこれ語っているんだけど、デザインを生業とする人とはこんなにも視座が違うものなのかと新鮮な思いをした記憶がある。
少しはアートに関心があるものの、デザインに関しては全くの門外漢の僕にとって、この本を読むことは刺激的な体験だったのだが、中でも、佐藤さんがバウハウスについて語った中で紹介していたこの言葉が印象深かった。

Less is More.(より少ないことは、より豊かなことだ)

一見すると矛盾しているかに思えるこの言葉だけど、バウハウスから生まれた作品を一目見るだけで、この言葉の意味が分かる。
分かるとはいっても、分かった気になっているだけかもしれないけど、すっと腑に落ちる説得力がバウハウスの作品にはある。
バウハウスの作品はとことんコンセプチュアルで、その本質以外の余分なものは全て排除している。
Simple is Best.なんてよく言うけど、その理由はLess is More.だからかもしれない。
では、なぜLess is More.なのか?

動的平衡で有名な生物学者の福岡伸一さんはこんなことを言っている。
「つくり出すためにエネルギーや時間がかかるものは、それだけ内部に高いエネルギーを持っているのです。内部に高いエネルギーを持っているということは、エントロピーの逆数ということで、つまり、エントロピーが低いということ。エントロピーが高いというのは乱雑さです。たとえば机の上に乱雑をつくり出すことは簡単ですが、それを『断捨離』してきれいにしていくためにはエネルギーが必要になる。でも、その結果現れた机の上には、秩序立った美が生まれるわけですね。たくさんのエネルギーを必要とするものは、つくるのに時間がかかるけれど、一方でもろさも併せ持っているわけです。(中略)時間とエネルギーをかけてつくり出されたものは、情報を持っているということです。情報というのもエントロピーの逆数で、乱雑さが低いということが情報量が多いことを意味する。だから、秩序があるものに美があるというのは、そこに情報があるからなんです。その情報は、もちろんインターネットの情報のようなものである必要はなく、動的なものでもいいし、蜂の巣のような幾何学的な構築物でもいいのですが、情報が内部に封じ込められているということが、秩序が高いということで、そこに美しさや機能性が発揮されるわけです」

ここに、なぜLess is More.なのか?の答えがあるように僕は思う。
さっきも言ったけど、僕はデザインに関しては門外漢なわけだけど、福岡さんのこの言葉は「Less is More.を説明している」気がしてならない。
間違っているのかもしれないけど、多分そうだ。

Less is More.が体現されているデザインには、秩序立った美がある。
無駄がなくすっきり瀟洒だから、いくら時を経ても色あせない、そんな美しさがある。
そのデザインに至るには、当然試行錯誤が繰り返され、時間も労力も注がれていることは想像に難くない。

宇宙全体の法則の一つに、エントロピー(乱雑さ)増大の法則というのがある。
この法則はなにかというと、机の上が知らず知らずのうちにぐちゃぐちゃになるように、熱あるものは冷める、秩序あるものは壊れるというもの。
でも、Less is More.なデザインは、寿命も迎えるその時まで、この法則に逆らっている。

時間も労力もかけて作られた秩序ある美は、その内部に高いエネルギーと、豊富な情報を保持している。
本来であれば、エントロピー増大の法則に従って、時間をかければかけるほど、労力をかければかけるほど、乱雑さ増していくものなのに、その法則に逆らって、それらを内部に押し込め、秩序立ったままで保持している。
Less is More.に至る物語が、その内部に隠されている。
だから、美しい。

1919年にドイツに設立されたバウハウスは1933年にナチスの圧力によって閉校に追い込まれた。
わずか14年という短い期間にもかかわらず、数々のデザインメソッドを発表し、現在に通じるデザイン哲学も生み出されたという。
21世紀に活躍するデザイナーの中にもバウハウスから影響を受けた人は多く、そのDNAを引き継いだデザイナーが今なおLess is More.を体現しているデザインを生み出し続けている。
Less is More.だと感じ作品に出会ったら、その奥にある物語に想いを馳せてみるのはどうだろう?

2012/01/19

引用


「……なんだかね、たとえばさ、うれしいとか悲しいとか、不安とか、色々あるじゃない。テレビみて面白いなあとか、エビ食べておいしいなあとか、なんでも。でもね、そんなのっていつか仕事で読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの」

これは川上未映子さんの最新作『すべて真夜中の恋人たち』(講談社)の一節。
自分の心の動きが誰かの引用かもしれない。
そう思うのは校正を生業とする女性。
彼女のように、“自分のもの”だと思っている感情が“別の人のもの”だと感じてしまうこと、ないですか?
僕にはあります。
それは批評家や学者などをはじめとした色んなの人の“まなざし”を内面化しているから。

ファッションや美術、音楽にインテリア。
対象は何だっていいんですが、メディアから受け取るそういった人たちの評価を取り込んでしまうことが、誰しも少なからずあるように思います。

「あの人が『良い』って言ってるんだから『良い』に違いない」
「あの雑誌で『悪い』って書いてあったから『悪い』んだろうな」
「みんな『大丈夫』って言ってるから、きっと『大丈夫』だよ」

こんな風に、他人の評価がそのまま自分の評価になってしまう、あるいは、なっていることは誰だって経験しているはず。
これって他人の評価の引用だと思います。

でも、だからってそれが悪いことだとは思いません。
他人の評価に限らず、他人の考え方だったり、やり方だったり、そういうものを取り入れて、人は成長していくものだから。

考えてみれば、自分とは違う誰かが作った色眼鏡で世界を見ることなんてよくあること。
だって教育がそうでしょ?
「学ぶ」の語源は「まねる」にあると聞いたことがあるけど、社会化の過程で人は周りの人のまなざしを内面化させていくわけだから。

新聞、雑誌、テレビにラジオ。ウェブだってそう。
メディアに媒介された情報を受け取るってことには、少なからず作者の意図や考え、思想、信仰なんかが含まれる。
そこには“事実”もあれば、“嘘”もある。

自分がいいと感じた他人の評価なんかはどんどん引用して自分の中に取り込んだらいいとは思うけど、それによって、ひとつの物事に対して、ひとつの視点からしか見つめられなくなるのはもったいない。
世の中には色んな価値観があるし、感じ方があるし、考え方がある。
自分がいいと感じた人の色眼鏡だけで世界を眺めるのは、世界の見方を制限することになる。
正面からは◯に見えても、横から見たら△だったってことはある。
斜めから見たら円錐でした、なんてことも往々にしてあるわけだから。

自分がいいと感じた人以外だけでなく、自分にはない他人のものの見方をどんどん取り込む。
そうして自分のストックを増やしておくことで、物事を多面的に捉える力が身につく。
これはすごく大事なこと。

自分の中にストックしておいた他人の評価。
それらを取捨選択したり、組み合わせたりすることで、自分のオリジナルの眼鏡が生み出せる。
どんどん引用して、どんどん生み出していこう。

2012/01/07

残尿感


言葉って氷山の一角みたいなもので、
海面からひょっこり顔を出しているその下に、
時としてとてつもなく大きな想いが隠れていたりする。

「好き」って気持ちを「好き」って言葉で伝えたとしても、
「好き」って気持ちがどこまで相手に届いてるかは分からない。
言葉に想いをめいっぱい詰め込んだつもりでも、
それが相手に届かないこともあるし、
それほど想いは詰めていないのに、
相手がこちらの想い以上のことを受け取ったりすることもある。

BUMP OF CHICKENの楽曲『supernova』の中で、
伝えたい気持ちだらけなのに、
伝えたい言葉が無い。
本当のありがとうはありがとうじゃ足りない。
そう唄っている箇所がある。
これは、氷山のたとえで言ったら、
海面の下に隠れているところまで、
余すところなく自分の気持ちを表現できる言葉がないってことだと解釈している。

言葉って「要約」みたい。
言葉という器にまとめられていて、
そこから溢れ出た部分はカットされている。
要約できない部分、言葉の器に入りきらなかった部分が大事だったりするのに。
そんな気がしてならない。
かといって、自分の想いに見合う
新しい言葉を勝手に作ったところで、
それはそれで伝わらないわけだし。

言葉として口に出しても、
伝わりきらない想いが必ず残る。
なんだか残尿感に似ているね。

濃縮還元の100%ジュースみたいに、
言葉として想いを絞り出せたらいいのにな。

本当を掴みたくて
本当を届けたくて

2012/01/03

「島人ぬ宝」


島人ぬ宝
 
作詞:BIGIN
作曲:BIGIN
歌:BIGIN

僕が生まれたこの島の空を
僕はどれくらい知っているんだろう
輝く星も 流れる雲も
名前を聞かれてもわからない
でも誰より 誰よりも知っている
悲しい時も 嬉しい時も
何度も見上げていたこの空を
教科書に書いてある事だけじゃわからない
大切な物がきっとここにあるはずさ
それが島人ぬ宝

僕が生まれたこの島の海を 
僕はどれくらい知っているんだろう
汚れていくサンゴも 減って行く魚も
どうしたらいいのかわからない
でも誰より 誰よりも知っている
砂にまみれて 波にゆられて
少しずつ変わってゆくこの海を
テレビでは映せない ラジオでも流せない
大切な物がきっとここにあるはずさ
それが島人ぬ宝

僕が生まれたこの島の唄を
僕はどれくらい知っているんだろう
トゥバラーマも デンサー節も
言葉の意味さえ分からない
でも誰より 誰よりも知っている
祝いの夜も 祭りの朝も
何処からか聞こえてくるこの唄を
いつの日かこの島を離れていくその日まで
大切な物をもっと深く知っていたい
それが島人ぬ宝
それが島人ぬ宝
それが島人ぬ宝


BIGINの名曲「島人ぬ宝」。
ずっと沖縄のことを唄っていると思っていた。
でも最近、友だちがカラオケで歌っているのを聞いて、
そうじゃないことに気付いた。
この唄は日本のことを唄っている。
BIGINに確認を取ったわけでもないから、
その真相は定かではないけど、
僕はそう思う。

沖縄も島だけど、
沖縄の人の言う本土だって島。
日本っていう国自体が島だから。
GDPが世界3位の経済大国っていったって、
日本はずっと「極東の島国」。
これまでもそうだったように、
これからもずっと。

面積から見れば日本は小さい国だといえる。
でもそんな小さい日本でも、
知らないことは山ほどある。
自分が生まれ育ったジモトであってもそう。

知った気ではいるけど、
実はそんなこと全然なくて。
学校や塾から学べることなんて、
すごく限られているわけだし。
メディアから提供されるものなんて、
ごく一部なわけだし。
自分が経験してきたことなんて、
ほんのちょこっとなわけだし。

みんながみんな、
ジモトに大切な物ってあると思う。
それは自然かもしれないし、
伝統や習慣かもしれないし、
知恵だったり、風景だったり、
人や場所だったりするかもしれない。
そういった「島人ぬ宝」を
もっとたくさん知りたいし、
もっと深く知っていきたい。
あなたの宝物はなんですか?

昔話とかだと、
宝物ってだいたい島にあるよね?
気付いてないだけで、
あなたのジモトにもそれはきっとあると思う。
ここにも、そこにも、あそこにも。
宝物、探しに行ってみませんか?