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2012/06/17

人を好きになった時に取るべき最善の方法


金城一紀の短篇集『映画篇』の中に好きな一節がある。

「君が人を好きになった時に取るべき最善の方法は、その人のことをきちんと知ろうと目を凝らし、耳をすますことだ。そうすると、君はその人が自分の思っていたよりも単純ではないことに気づく。極端なことを言えば、君はその人のことを実は何も知っていなかったのを思い知る。そこに至って、普段は軽く受け流していた言動でも、きちんと意味を考えざるを得なくなる。この人が本当に言いたいことはなんだろう?この人はなんでこんな考え方をするんだろう?ってね。難しくても決して投げ出さずにそれらの答えを出し続ける限り、君は次々に新しい問いを発するその人から目がはなせなくなっていって、前よりもどんどん好きになっていく。と同時に、君は多くのものを与えられている。たとえ、必死で出したすべての答えが間違っていたとしてもね」

この一節は、「さとなお」こと佐藤尚之さんのベストセラー『明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法』(アスキー新書)の中で紹介されているので、ご存知の方も多いかもしれない。
ただ、自慢ではないが、僕はそれより以前、この本が発売された頃からこの箇所が好きで、繰り返し繰り返し、何度も読んでいた。
というのも、当時、金城一紀がめちゃくちゃ好きだったのだ。
チ◯ポでモノゴトを考えるようなバカでまっすぐなオチコボレ男子高校生の日常を描いた「ゾンビーズシリーズ」にはまったのがきっかけで、金城一紀の本が発売されると知れば、発売日を指折り数えるくらいに好きだった。
『映画篇』もそうで、発売されるやいなや、書店へ駆けつけ買ったのを覚えている。
ただ、『映画篇』は今僕の手元にはない。
誰かに貸したまま行方不明。
要するに「借りパク」されたのだ。
今でももちろん返してほしいのだけど、誰に貸したのかも覚えておらず、すごく残念なのだけど

話が脱線したけど、『映画篇』に出てくるこの教えを、僕はすごく大事にしている。
好きな人(それは恋愛対象として好きといったような狭い意味ではなくて、尊敬できる人とか一緒にいて楽しい人とか、何だか分からないけど気になる人とかも含めた広義においての好きな人で、もちろん性別は関係ない)ができると、目を凝らそう!耳をすまそう!とその人のことを知ろうとする。
でも本当に言葉通りで、そうやって相手のことを知ろうとしても全然わかんないことだらけで、意味不明なことが山ほどでてくる。
そしたらこれまた言葉通りに、目がはなせなくなって、気がつけば相手のことをどんどん好きになっている自分に気づくのです。
知識とか視点とか感情とか、本当に多くのものを与えられているということにもね。

でも、そうやって相手が何気なくなげかけてくる難問に必死になって答えていても、少し目を離したり、耳を塞いだりすると、とたんに相手のことが分からなくなることもある。
もともとの回答が間違っているということももちろんあるけど、たとえその時は正解だった回答が次の瞬間には不正解になっていることだってあるから。
数学の解答みたいに、答えが一つってことはないからね。
人は変わるし、それに伴って、同じ問いでも、答えは変わる。

上の一節を述べた登場人物は続けてこんな言葉を口にする。

「まあ、人であれ映画であれなんであれ、知った気分になって接した瞬間に相手は新しい顔を見せてくれなくなるし、君の停滞も始まるんだよ」

この間、好きな人のちょっとした変化に気づけず、その人が離れていってしまうという体験をした。
あの教えを大事にしていたつもりだったけど、「知った気分」になっていたのかもしれない。
『映画篇』が返ってこないのとは比べものにならないくらいに残念だ。

人は変わるし、答えも変わる。
だから、もしかしたら「目を凝らして、耳をすます」だけでは足りないのかもしれない。
解像度を上げ、絶えずチューニングをする必要があるように思う。
解像度を上げないと見えないこともあるだろうし、チユーニングしないと聞こえないこともあるだろうし。

「信頼」というのは、相手のことをすっきりとピントが合った状態で見えており、なおかつ、相手の小さい声もひろえているから出来ること。
深いところでお互いのことを理解し合える(暗黙知を共有できている)からこそ「信頼」できるし、「阿吽の呼吸」のようにぴったり息が合うのだと思う。

見えているようで見えていない。
聞こえているようで聞こえていない。
世の中にはそんなことがあまりにも多い。
せめて好きな人たちのことはちゃんと見たいし、声を聞きたいから、この教えをこれからはこれまで以上に丁寧に守っていきたいと思う。

マイナスドライバーの先端


「物」は分けると減るけど、「感動」は分けても減らない。
むしろ、その総量(感動が量で計れるものかどうかは置いておいて)は増える。
スポーツイベントやライブパフォーマンスを観た観衆の熱狂ぶりが良い例。
大勢に「感動」が共有されることで気分が高揚し、その場の昂った雰囲気に浸ることで更なる興奮が体感できる。
たとえ同じイベントやライブであっても、テレビ中継やDVDで観た場合にはそのような感動や興奮は決して得られるものではない。
そのようなことが「視点」にも言える気がする。
つまり、「視点」も複数で分けることで、増えるんじゃないかと。

「視点」は人それぞれのもの。
高さもが違えば、見方も違う。
解像度も人によって変わってくる。
でも、会話でも、メールのやり取りでも、ワークショップでも、読書でも、やり方は何でもいいんだけど、自分と異なる「視点」の持ち主と“対話”することで、(一時的ではあるにせよ)その人のまなざしでモノゴトを見ることができる。
同時に、相手にもこちらの「視点」でモノゴトを見てもらうことができる。
自分の「視点」に加えて相手の「視点」でモノゴトが見れるのだから、“対話”は人を複眼的にさせると思うのだ。

たとえば、マイナスドライバーの先端。
この形状、あなたには□に見えるかもしれない。
でも、ある人には△に見え、またある人には◯に見えているかもしれない。
真横から見れば、□に。90度、角度を変えれば、△に。そして真上から見れば、◯に。
マイナスドライバーの先端みたいに、「視点」が変われば、見え方が変わってくるなんてことはよくあること。
しかも、現実はマイナスドライバーの先端よりも複雑な形状の場合がほとんどだしね。

複眼的にモノゴトを見れるということは、目の数だけ違った世界が見れるということ。
見たこともないような色や、形。
知らない音や温度を感じることもできるかもしれない。
オリジナルの「視点」とは別の「視点」を持てるということは、それだけですごく豊かな体験なんだと思う。
だから、僕は“対話”を大事にしたい。