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2012/05/15

待ち合わせ


 先日、『It’s My Times』というドトールが発行しているコーヒーカルチャーマガジンを手に取った。
僕は今回が初めて知ったのだが、全国のドトール店頭で配布されており、すでにvol.7まで発行されているらしいのでご存知の方も多いかもしれない。
このフリーペーパーには「It’s My Story」というコーナーがあり、毎回、クリエイティブな人たちがコラムを書いている(らしい)。
僕が手に取ったvol.7では、コピーライターの山本高史さんがこのコーナーを担当しており、「A man @ cafe」という題のコラムを書いていた。
内容は、「待ち合わせ」の今昔物語。
簡単に言えば、ケータイ普及以前と以後では「待ち合わせ」のスタイルが大きく変わったよねーというお話。

「渋谷あたりで午後3時頃ね」

これが今の待ち合わせのスタンダードなスタイル。

「渋谷のハチ公の背中側で午後3時15分」

こっちが昔の待ち合わせのスタンダードなスタイル。

 ケータイが普及した今となってはそんな必要はないんだけど、昔は場所も時間も事前に決めておく必要があったみたい。
それも「ハチ公の正面じゃなくて背中側だからね!」といった具合に、日時だけではなく場所も事細かに設定しておかなければならなかったという。
理由は簡単で、そこまで決めておかないと、「出会えない」なんてことにもなりかねないから。
そういったリスクを回避するためにも、昔は「待ち合わせの打ち合わせ」を綿密に行うことに大きな意味があったらしい。

 それに何らかの事情で待ち合わせに遅れそうな状況であっても、相手にそのことを伝えることが難しいからさあ大変。
だから、「デートで相手を5分待たそうものなら、気のきいた言い訳のひとつも用意しなきゃならない。15分待たそうものなら、待たせた時間と同じくらいの時間をかけて彼女の機嫌を取らなきゃならない。30分待たそうものなら、彼女はもういないのかもしれない。待たされる側にしてみても、5分ならいつもそうなのねと小言のひとつも言いたくなり、15分なら今日はおいしいものをごちそうしてもらってもいいかもね、であり、30分になればあの人に何かあったんじゃないかとイヤに胸がざわざわざわめ」いたのだとか。

 相手にそんな思いをさせないように、「待ち合わせの打ち合わせ」で約束した通り、待ち合わせの時間に待ち合わせの場所に着けるように、彼/彼女たちはその時間、その場所を目指して急いだという。
なんだかそれだけでトレンディドラマみたい。

 更に困ったことに「待ち合わせの打ち合わせ」での決定事項は、簡単には当日変更できない。
だから、「電話を取り次いでくれる喫茶店で待ち合わせをして万が一に備える」用意周到な人もいたというから驚くしかない。

 ケータイが普及してからというもの、この待ち合わせのスタイルは一変。
「昔はよかった」おじさんである山本氏はこの変化をこのように嘆いていらっしゃる。

「ベンリは人のココロの動きを鈍らせる。正しい待ち合わせの時代(ケータイ普及以前)ならば、人は知恵で、不便や、不自由や、不寛容の穴を埋めようとした。ところが、必要にして十分すぎるベンリは、思いやりという創造力の入り込む隙間さえも埋めてしまったようだ」

おじさんの言うことも分かる気がする。
ケータイがなかった時代は「待ち合わせ」ひとつとっても、今よりも心が動いていたに違いないもの。
「時間と場所は間違ってないかな?」
「ちゃんと会えるかな?」
ケータイを使って簡単に連絡を取り合うことができないと、そんな不安で胸がいっぱいになるってこともあっただろうし。
(今では連絡がつかないと相手を不安がらせるというよりは、苛立たせることになりかねない)
「渋谷あたりで午後3時頃ね」
なんて曖昧な約束であっても、ケータイを使えば「会えない」なんてことはまずないのだから、出会えたときの胸の高鳴りも昔に比べていくらか軽減されたのかもしれないし。
ケータイ一つでいつでもどこでも離れていても、相手がどこにいて何をしているかが分かるから「ベンリが人のココロの動きを鈍らせる」って側面があるのも理解できる。
それに「知恵」を働かせるまでもなく、ケータイをはじめとした情報通信技術の恩恵を受ければ、かつての「不便や、不自由や、不寛容の穴」だとされていたものを埋められることが多くなったのも事実だろう。
「思いやりという創造力の入り込む隙間」も完全ではないにしろ、少しは埋めてしまったってこともまた事実だと思う。

 この間、ケータイを修理に出している人と待ち合わせをする機会がありました。
その人はどういうわけか代替機も持っていなかったので、昔ながらのやり方で僕たちは待ち合わせをしたのです。
だからセオリー通り、事前の「待ち合わせの打ち合わせ」は入念にする必要がありました。
その時は、その人が乗っているはずの電車に別の駅から僕が乗り合わせるというシチュエーションだったので、僕たちは「◯◯日の△△時発の電車の××両目で落ち合いましょう!」と、こんな具合に待ち合わせをしました。
当日は当然、連絡が取れないわけです。
「時間と場所は間違ってないかな?」
「ちゃんと会えるかな?」
まさしくそんな不安で胸がいっぱいになったわけです。
最後にこんなに胸がざわついたのはいつだったか分かりません。
とにかくそわそわそわそわ。
いつになく落ち着くことができませんでした。
そんな不安を抱えて駅のホームに佇む僕の目がその人を電車のドア越しに捉えたときの胸の高鳴りたるや、)生き別れた兄弟が運命の再会を果たしたときの半分くらいのものだったと想像します。
情報通信技術は目を見張る進歩をしてきたけど、人の心は昔も今も進歩がないみたい。
ベンリで僕のココロは動きを鈍らせられていたのだなあ。
そんなことを思いましたとさ。

2012/05/14

自立しなきゃダメですか?


【自立】他の援助や支援を受けず自分の力で身を立てること。ひとりだち。

 「自立」の意味を広辞苑はこう説明しています。
 あなたはこの「自立」という言葉から、どんなことを感じますか?立派なことだと感じる人もいれば、強さを感じる人もいるかもしれません。でも僕は、「自立」という言葉から孤独感や孤立感を感じます。
 「他の援助や支援を受けず自分の力で身を立てること」ってことは「無縁(援)」を意味しているんじゃないかと思うからです。日本だけでなく、世界の国々に「自立することはいいことだ」という価値観があるように思いますが、「自立」するのはそんなにいいことなのでしょうか?
 日本では孤独死が社会問題となっていますし、アメリカでは一人ぼっちでボーリングを楽しむ人が増えていると聞きます。「自立することはいいことだ」という価値観で生きてきた結果が、「孤独死」や「ボーリング・アローン」であるとすれば、それは何だか悲しい結末な気がしてなりません。
 でも考えてみれば、広辞苑的意味で「自立」している人って、世界中探してもマイノリティーな気もしないでもありません。いくら経済的に豊かであっても貧しかったとしても、社会のセーフティネットからこぼれ落ちた人であっても、お金を媒介させて「他の援助や支援を受け」ている場合が多いはず。つまり、サービスを買ったり(買われたり)、人を雇ったり(雇われたり)、あるいは国が社会保証を提供(享受)したりしているわけだから。
 このほかにも社会関係を媒介させて「他の援助や支援を受け」ている場合もあるでしょう。社会学の用語で言えば「ソーシャル・キャピタル」、つまり、人と人とのつながり(関係性)を活用して、「他の援助や支援を受け」ている場合も少なくないはずですから。
 「自立」することを全面的に否定しているわけではありませんが、「他の援助や支援を受け」てもいいんじゃないかと思うわけです。「自立することはよいことだ」という価値観は、「人に甘えることは悪いことだ」と言い換えられると思うんですが、甘える対象が人ではなく、金であるのなら話は別ですが、人である分には問題ないんじゃないでしょうか?
 そもそも、甘えの対象(人)になるのは近しい人の場合がほとんどだと思います。公共空間で見ず知らずの人に配慮していただくこともあるにはありますが、割合にすればごく小さい。だって、甘えるということは、多くの場合、面倒で厄介なことを相手にお願いするわけだから。親とか、友だち(それも親友と呼べるような)とか、恋人や先輩、後輩とか。距離が近い人でないと、甘えが迷惑になりかねないから。
 こうして考えてみると、甘えるという行為は、両者(「甘える人」と「甘えられる人」)の親密な関係性を前提にしていることが分かります。「甘える人」は相手が近い存在だからこそ甘えることが出来るのだし、「甘えられる人」は甘えてくる人が近い存在だから甘えることを許すわけだし。
 甘えられる。(「可能」と「受動」、双方の意味に置いて)この状況はすごく幸せなことなのかもしれません。それだけのソーシャル・キャピタル(社会関係資本)があるということですから。甘えることを相手が許してくれるのであれば、甘えればいいと思うんですが...
 それでも自立しなきゃダメですか?

2012/05/08

Improv Evrywhere


Improv Evrywhereって知ってますか?
ニューヨークを拠点に活動している集団なんだけど
アメリカじゃ、設立者のチャーリー・トッドって人がImprov Evrywhereの活動について“Causing a Scene”って本も出しているし、活動をまとめたDVDも発売されてるし、TEDにも何回も登壇しているし、大手のメディアにも取り上げられたりと、わりと世間を騒がせてるみたいなんだけど
日本ではそこまでの知名度はないかもしれません。

で、この集団がどんな活動をしているかってことなんだけど
ズバリ、「いたずら」。
「いたずら」って言っても、ピンポンダッシュとかそんなかわいらしいもんではないよ?
彼らがやってるのは、本気の「いたずら」。
集団でパンツ(ズボン)を履かないで地下鉄に乗る「No Pants Subway Ride」だったり、ニューヨークのグランド・セントラル駅で突然停止する「Frozen Grand Central」であったり、クリスマスでにぎわうショッピングモールで突然ミュージカルを始める「Mall Santa Musical」であったり、カフェにラップトップPCの替わりにデスクトップPCを持ち込んで作業を始める「Mobile Desktop」であったり
それもフラッシュモブ的にね。
ちなみに、フラッシュモブっていうのは、インターネットやメーリングリストを通じた呼びかけに応じた不特定多数の人たちが公共空間に集合して、あらかじめ申し合わせた行動を取り、目的が達成されれば即座に解散する行為のこと。

ここではImprov Evrywhereの人気企画であり、Improv Evrywhereの魅力がつまった「The Mp3 Experiment」というミッションをご紹介します。

映像を見てもらえば一目瞭然だとは思うんだけど、彼らは「いたずら」に真剣に取り組んでる。
打ち合わせもしてるだろうし、練習もしてるだろうし。
それに、エンターテイメント性を重視してる。
「いたずら」にプロがいるのかは分からないけど、いるのだとすれば、彼らのような人を指すんだと思う。

先にも挙げたように、彼らの活動の舞台はパブリックスペース。
当然、急に「いたずら」が始まれば、周囲にいる人たちは「何が始まったんだ!?」と訳が分からなくて、辺り一帯が混沌とする。
でも、彼らが破壊活動をするような凶悪なテロリストでないことが分かってくると、周囲は楽しい雰囲気に包まれる。
そして終いにはそのエンターテイメント性に拍手を送ってしまったりってこともしばしば。
それもそのはずで、Improv Evrywhereはパブリックスペースに「カオス」と「ジョイ」を引き起こすことをモットーにしているみたい。

2001年の8月からスタートしたImprov Evrywher
芝居とコメディに興味を持ちニューヨークにやってきた若者が、なかなか舞台に立つ機会を得られなかったがために公共の空間に自分の活動の場を創ろうと思ったことがきっかけに始まったこのプロジェクトは、今では数万人以上の人を巻き込んで100以上のミッションをこなしてきているそうです。
10年以上にも渡る彼らの活動はHPにもYou Tubeにも多数アップロードされているので、気になる方は是非チェックしてみて下さい。

TEDで代表のチャーリー・トッドが言ってたんだけど、You Tubeのコメントで最も多い彼らへの批判は、「暇すぎなんじゃないか?」なんだとか。
こうした意見に対し、チャーリーはこう語ります。

「僕たちは暇なわけじゃありません。Improv Evrywhereの参加者の余暇の量は、他のニューヨーカーとなんら変わりがないのですから」

スタジアムに足を運んでフットボールを観戦する代わりに、彼らは少し変わったことをして過ごしているだけです。
余暇をどう過ごそうが、他人からあれこれ言われる道理はどこを探したってないですからね。
それに彼らのこうしたミッションってほんとにクリエイティブ。
「観客」でも「お客様」でも「消費者」でもなく、ミッションに参加している人はみんな「キャスト」であり「パフォーマー」なわけですから。
ニューヨークはアメニティが充実している大都市なので、「観客」やの「お客様」、あるいは「消費者」としてそれらの恩恵を受けるだけでも十分に楽しめるはず。
でも、そうした活動はサービスを享受するわけですから、姿勢としては受け身です。
彼らの姿勢はどうかと言えば、主体的ですよね。
やらなくてもいいミッションをゼロから生み出し遂行しているんですから。

子どもの頃は、誰もが遊びを生み出す能力を発揮していたはずですが、大人になればなるほど、その能力が衰えていくように思います。
Improv Evrywhereの参加者のように、「遊び心」を忘れず、「キャスト」や「パフォーマー」となる人が増えれば、「カオス」や「ジョイ」だけでなく、出会いや交流も増え、まちは楽しくなるかもしれませんね。
あなたは「遊び心」、なくしていませんか?