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2012/01/19

引用


「……なんだかね、たとえばさ、うれしいとか悲しいとか、不安とか、色々あるじゃない。テレビみて面白いなあとか、エビ食べておいしいなあとか、なんでも。でもね、そんなのっていつか仕事で読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの」

これは川上未映子さんの最新作『すべて真夜中の恋人たち』(講談社)の一節。
自分の心の動きが誰かの引用かもしれない。
そう思うのは校正を生業とする女性。
彼女のように、“自分のもの”だと思っている感情が“別の人のもの”だと感じてしまうこと、ないですか?
僕にはあります。
それは批評家や学者などをはじめとした色んなの人の“まなざし”を内面化しているから。

ファッションや美術、音楽にインテリア。
対象は何だっていいんですが、メディアから受け取るそういった人たちの評価を取り込んでしまうことが、誰しも少なからずあるように思います。

「あの人が『良い』って言ってるんだから『良い』に違いない」
「あの雑誌で『悪い』って書いてあったから『悪い』んだろうな」
「みんな『大丈夫』って言ってるから、きっと『大丈夫』だよ」

こんな風に、他人の評価がそのまま自分の評価になってしまう、あるいは、なっていることは誰だって経験しているはず。
これって他人の評価の引用だと思います。

でも、だからってそれが悪いことだとは思いません。
他人の評価に限らず、他人の考え方だったり、やり方だったり、そういうものを取り入れて、人は成長していくものだから。

考えてみれば、自分とは違う誰かが作った色眼鏡で世界を見ることなんてよくあること。
だって教育がそうでしょ?
「学ぶ」の語源は「まねる」にあると聞いたことがあるけど、社会化の過程で人は周りの人のまなざしを内面化させていくわけだから。

新聞、雑誌、テレビにラジオ。ウェブだってそう。
メディアに媒介された情報を受け取るってことには、少なからず作者の意図や考え、思想、信仰なんかが含まれる。
そこには“事実”もあれば、“嘘”もある。

自分がいいと感じた他人の評価なんかはどんどん引用して自分の中に取り込んだらいいとは思うけど、それによって、ひとつの物事に対して、ひとつの視点からしか見つめられなくなるのはもったいない。
世の中には色んな価値観があるし、感じ方があるし、考え方がある。
自分がいいと感じた人の色眼鏡だけで世界を眺めるのは、世界の見方を制限することになる。
正面からは◯に見えても、横から見たら△だったってことはある。
斜めから見たら円錐でした、なんてことも往々にしてあるわけだから。

自分がいいと感じた人以外だけでなく、自分にはない他人のものの見方をどんどん取り込む。
そうして自分のストックを増やしておくことで、物事を多面的に捉える力が身につく。
これはすごく大事なこと。

自分の中にストックしておいた他人の評価。
それらを取捨選択したり、組み合わせたりすることで、自分のオリジナルの眼鏡が生み出せる。
どんどん引用して、どんどん生み出していこう。

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